問答と学び

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種族としての人類の存在意義をSF小説から考える

歴史と種族としての生物学が面白い。ある種が別の種を生み出す経緯を描いたものだ。実証研究に基づいた書籍が多いが、実は、SF小説からのアプローチもある。

 

人間(正確にはホモサピエンス)の今後の進化について、どんなふうに考えたことがあろうだろうか。技術が進歩し、社会の仕組みが変化し、人口が増え、…のようなストーリーはよく耳にする。

 

こういった典型的なストーリーの前提には、人間の種族としての生物学的な進化は含まれていない。もうこれ以上の種族は生まれてこないのだろうか。人類は、人類でないより高次の存在を生み出さないのだろうか。

 

そんなことを深く考えて書かれたSF小説がある。

 

 

幼年期の終り

幼年期の終り

 

 

 著者のアーサー・C・クラークの名前を聞いたことがあるかもしれない。SF小説の大家で、映画「2001年宇宙の旅」の原作者でもある。

 

概要を極々簡単に紹介する。

・宇宙人が地球に来る。人類を安寧に導くような平和的な施策を実行するが、真の目的は伏せられたまま。人類は平和を享受し、その黄金時代が到来する。

・黄金時代は、人類の中から「より上位の種」が生まれだすことによって終焉する。この種は、物理的な障害を超え、その精神を他の個と融合し、自我を失った存在となる

・この次の種を生み出すことが、宇宙人の真の目的だった。人類は、その生態系の頂点を新たな種に譲り、滅亡する 

 

幾つか紹介したい文を抜粋してみよう 

 

一つは、平和になった人類の黄金時代における、人々の生活の描写だ。もはや労働に時間を割くことなく、娯楽にずっと興じている。

 

あなたはこの事実に気づいていますか? 一日じゅう眠らず、ほかのことはいっさいせずにラジオ、テレビにかかりきっていても、毎日スイッチをひねるだけで出てくる娯楽番組の二十分の一も見聞きできないのですよ! 人類が受動的なスポンジに──呼吸するばかりで決して創造しない動物になってしまったのも不思議はありません。現在、一人あたりの平均視聴時間は、日に三時間にもなっておるという事実をご存じですか? このままでいくと、近いうちに人間は、自分の人生を生きることをやめてしまうかもしれない。テレビのシリーズものに遅れないようについていくのが、一日がかりの仕事ということにもなりかねんのです! 

 まるで、今のコンテンツ氾濫を予言したような文章ではないだろうか。例えばネットフリックスには、1日中見ても終わらない量の映画やドラマが毎日追加されている。我々は、この「受動的なスポンジに──呼吸するばかりで決して創造しない動物に」近づいてはいないだろうか。進化どころか、これではむしろ退化だ。

 

ラシャヴェラクは口ごもった。一瞬、言葉に窮しているようにさえ見えた。 「そうです、われわれは産婆です。しかしわれわれ自身は 石女 なのだ」  その瞬間、ジョージは自分が大きな悲劇に相対しているのを悟った。

ラシャヴェラクは宇宙人側で、ジョージは人類側。 ジョージがラシャヴェラクに、地球に到来した真の目的を質した時の会話だ。「石女」など、ここでは少々古い偏見が残った表現になっていることは否めない(執筆は1953年)。

ある種が次の種を生めないからといって、それは悲劇なのだろうか。人類社会でも、様々な理由によって自分の生物学的な子を希望しながら持てない人はいる。そのような条件でも、つまり個としての遺伝を次世代に残せなくとも、社会全体に貢献して充実感を得ている人は沢山いる。

これと同じことが、人類社会全体でなく、宇宙全体にも言えるのではないだろうか。ラシャヴェラク、そしてその地球へ到来した種は、決して悲劇を演じている訳ではない。

 

われわれの精神力は発達の極限に達した。そして、現在の形態では、地球人類のそれも、また限界に達している。しかし、地球人は今後、まだ次の段階に飛躍する余地を残している。そしてこれが、われわれのあいだに横たわる根本的な相違なのだ。われわれの潜在能力はすでに枯渇してしまった。

これは宇宙人側から発せられたセリフだ。

種族としての精神力の発達の極限、というものをどのように確認できるだろうか。例えば、芸術や科学、政治の進歩が見られなくなることだろうか。個人としてある特定の分野においては発達の極限を感じることはあるが、種全体としては、感じ得るのかが疑問に残っている。

そもそも精神力をどのような生物も持ちあわせているだろうか。ここでいう精神力とは何を指すのかも不明だが、考えることは多い。

 

 

ラストシーン近くも色々と書きたいことはあるのだが、ここでは控えることにする。興味を持っていただいた方には是非読んで欲しい。

 

 

幼年期の終り

幼年期の終り